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院生の頃から思うこと

西村ゼミではとにかく欧米(といっても英語だけだが)の考古学の理論・方法論的な問題が議論された。エジプト学から旧石器、縄文、弥生、古墳と専門を異にする院生が共通に議論できるのは、欧米の理論・方法論だったからだと思う。ヨーロッパ新石器を扱うものでも、ニューギニア民族誌でも、オーストラリアアボリジニでも、どこかの地域のステイトフォーメーションでも、そこから何かの方法や理論的な枠組みを抽出して日本のそれと比較検討してみたかった。遺物分類やその取り扱い方に問題があるものも多かったけれども、そんなことは気にしていなかったように思う。




しかしその当時も、今も、ボク自身はやはり図表のない論文は苦手である。プロセス学派のものでもポストプロセス学派のものでも図表のない論文はあまり読みたくない。苦手である。やはり何がしかの具体的な遺跡や文化を扱いながら、新たな方法論的なアプローチが提示されている論文や論文集でないと、、、。これはボクの癖であり若い人に見習って欲しいことではない。

具体的な遺物や遺跡を扱う中で、新しい見方や新しい方法を模索していた。理論的な精緻化や研鑽を意図して原書を読んでいたわけではない。豊富な日本の遺物に、欧米の新しい研究・方法論・理論で挑んでみたい。そのためにはどうアレンジしたらいいか?また自分の対象とする遺物や遺跡に適用するのに適したアプローチは何か、そんなことを悩んでいたように思う。
日本の研究の中で採用されている方法にも、きわめて優れたものがある。そして欧米の研究にもお粗末なものがある。

考古学の教育というより、日本の大学教育の中で、論理哲学、統計学、社会学、人類学、地質学、生物学といった学問のエッセンスや研究史をどれだけ教養として教えているだろうか、と思う。みな個人的にあるときにその必要性に気付き、読みはじめる。考古学を勉強するなら、こうした学問群について知っておきなさいよ、というガイドがないように感じている。そうしたガイドを作ることは確かに難しいのだが。

今の若い人たちはどう感じているのだろうか?
by north-archaeo | 2006-03-24 19:32 | 僕の学生時代